「働く」を考える日、インドネシアで迎えたメーデーと日本との違い

Indonesia Makassar

インドネシアでは5月1日のメーデーが正式な祝日として、各地で労働者によるデモや集会が行われます。現地での体験を通じて、「働くこと」の意味や労働者の声が社会にどう届くのかを考えさせられました。日本では見過ごされがちなこの日を、あえて海外の視点からお伝えします。

メーデーの起源と世界的な広がり

インドネシアで暮らすようになってから、あることに気づきました。それは、5月1日が「メーデー(国際労働者の日)」として正式な祝日であり、社会全体がこの日を通じて「働くこと」や「労働の意味」を考え直す特別な日として扱われていることです。

メーデーの起源は、19世紀アメリカの労働運動にさかのぼります。1886年5月1日、シカゴで労働者たちが「1日8時間労働」を求めてストライキを行い、後に「ヘイマーケット事件」として歴史に刻まれる大規模な弾圧が起きました。この出来事をきっかけに、世界中で5月1日が“労働者の権利を訴える日”として認知されるようになったのです。

現在では、多くの国で5月1日を「労働者の日」として祝日とし、デモや集会が行われています。インドネシアもその一つです。

インドネシアのメーデーは「声を上げる日」

2025年5月1日、私が住む南スラウェシ州の州都マカッサルでは、朝から州議会や労働省の前でデモが行われていました。事前に総領事館からも注意喚起があり、南スラウェシ州議会議事堂(通り:Jl.ウリプ・スモハルジョ)、南スラウェシ州政府庁舎(通り:Jl.ウリプ・スモハルジョ)、マカッサル市労働力省事務所(通り:Jl. APペタラニ)、AP Pettaraniのフライオーバー(通り:Jl.Pettarani)といった幹線道路での交通規制が告知されていました。

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デモを行っていたのは、労働組合や大学生たち。彼らは「最低賃金の引き上げ」や「不安定雇用の是正」、「社会保障制度の改善」などを訴えていました。マイクから流れる声、掲げられた横断幕、そして整然と行進する人々の姿からは、単なる“休日のイベント”とは異なる緊張感と熱意が感じられました。

makassarhitskekinianから

このような光景は、インドネシアのメーデーでは決して珍しくありません。人々が現実の生活と結びついた課題に対して、積極的に声を上げる日として、この日を真剣に受け止めているのです。

一方、日本では?

対して日本では、5月1日は祝日ではありません。連休の合間ということで有給休暇を取得して「大型連休」にする人はいても、メーデー自体を意識する人は少ないのではないでしょうか。労働組合による集会は今も続いていますが、参加者も減り、メディアでも大きく取り上げられることはありません。

これは、日本における労働運動の衰退や、終身雇用・年功序列といった独特の労使関係が影響しているとも言われています。また「働くこと」=「社会への貢献」と捉える文化の中では、権利を主張することが“わがまま”と捉えられがちという側面もあります。

海外に暮らして見えてくる「働くこと」の意味

インドネシアでメーデーを迎えると、「働くとは何か?」「なぜ人々は声を上げるのか?」という根本的な問いに直面します。それは決して他人事ではなく、自分自身の働き方や、所属する社会との関わり方を見つめ直す機会でもあります。

インドネシアでは、生活と労働が直結している人々が多く、労働条件の変化が生活そのものに大きな影響を与えます。だからこそ、メーデーは「休み」ではなく、「未来の生活をかけた行動の日」なのです。

声を上げても届かない現実

インドネシアで暮らしていると、「働くこと」が単なる生計手段ではなく、日々の生活そのものを支える“闘い”の連続であることを、よりリアルに感じます。最低賃金ぎりぎりで働く人も多く、労働時間も不規則。交通事情や医療制度も整備が不十分な地域では、職を失うことが“生きること”に直結する危機を意味します。

それだけに、5月1日のメーデーに行われるデモや集会には、人々の切実な願いが込められています。しかし実際には、声を上げたからといって、すぐに状況が変わるわけではないという現実も、また厳然として存在します。

たとえば最低賃金の見直しひとつをとっても、中央政府と地方政府、そして企業側との調整には時間がかかり、要求が認められるケースは限定的です。地方では「抗議しても変わらない」という無力感が根強く、特に非正規や日雇い労働者、女性労働者にとっては、労働組合にすら加入していない、あるいは加入することで逆に職を失うリスクを背負うという現実があります。

現地でビジネスをしている中で、「権利の主張が構造的に通りにくい」場面に何度も直面しました。契約書があっても守られない、賃金の遅配が常態化している、制度は存在しても運用が機能していない、そんな現実が、今もなお多くの労働現場に横たわっています。

それでも、メーデーには人々が集まります。「変わらない」と言いながらも、「変えなければならない」という想いを胸に、プラカードを掲げ、道路に立つ。声を上げることで、たとえ小さくても社会に問いを投げかけ、次の一歩に希望をつなげようとしているのです。

これは単なる“祝日”ではありません。働く人々が、自分の尊厳と生活を守るために踏み出す一日。そうした姿にふれるたび、日本にいたときの自分が、どれほど「働くこと」を当たり前のものとして受け止めていたかを思い知らされます。

そして今、インドネシアで働く人々の姿を見て、「働くこととは何か」を問い直すようになりました。生活のためだけではない、誰かに必要とされることの喜び、声を上げることの勇気、社会とつながることの意味。それは、海外に暮らして初めて見えてくる現実です。

日本の働き方への再考

インドネシアでメーデーを経験し、労働者たちが自らの権利を主張する姿を目の当たりにすると、日本の労働環境について改めて考えさせられます。日本では、労働者の権利が法的に保障されている一方で、実際の職場ではその権利が十分に行使されていない現実があります。

たとえば、労働基準法では1日8時間、週40時間の労働時間が定められていますが、実際には長時間労働が常態化しており、過労死という言葉が生まれるほど深刻な問題となっています 。また、非正規雇用者の増加により、同一労働同一賃金の原則が守られていないケースも多く見受けられます。

さらに、労働組合の組織率の低下や、労働者が自らの権利を主張しにくい職場文化も問題です。日本では、労働者が声を上げることが「和を乱す」と捉えられがちであり、結果として不当な労働条件が是正されにくい状況が続いています。

このような現実を踏まえると、日本においてもメーデーの意義を再認識し、労働者の権利について考える機会とすることが重要です。労働者一人ひとりが自らの権利を理解し、必要に応じて声を上げることが、より良い労働環境の実現につながるでしょう。

また、企業や政府も、労働者の声に耳を傾け、法制度の実効性を高める取り組みが求められます。たとえば、労働時間の適正化や、非正規雇用者の待遇改善、労働組合の活動支援などが挙げられます。

インドネシアでの経験を通じて、日本の働き方を見直すきっかけとなりました。私たち一人ひとりが「働くこと」の意味を考え、より良い労働環境の実現に向けて行動していくことが、これからの社会に求められているのではないでしょうか。

 

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