もう止めることもできない。インドネシア高速鉄道「Whoosh」の80年返済
2026年9月8日、インドネシアのプルバヤ財務相が、少し耳を疑うような発表をしました。
ジャカルタとバンドンを結ぶ高速鉄道「Whoosh」の中国向け債務について、返済期間を最大80年に延長するというのです。従来は40年程度とされていました。再編後の年間返済額は約1兆ルピア、日本円にして約90億円です。
返済期間を延ばせば、毎年の負担は軽くなります。しかし80年後まで、いまの設備がそのまま使えるわけではありません。車両も信号も電力設備も、その間に何度も更新しなければならないはずです。
これは本当に問題の解決なのでしょうか。それとも、いまの問題を次の世代へ送っただけなのでしょうか。
東南アジア初の高速鉄道
Whooshは2023年10月に正式開業した、ジャカルタ―バンドン間約142kmの高速鉄道です。最高時速350km、所要時間は約3時間から40分程度へ短縮されました。中国の「一帯一路」を象徴する大型事業で、インドネシア側60%、中国側40%の合弁事業として運営されています。
技術的にも運行面でも、一定の成果を上げてきたのは事実です。単純な「使われていない失敗施設」ではありません。
膨らみ続けた建設費
当初の想定事業費は約60億ドルでしたが、最終的には約73億ドルまで膨らみました。費用超過は約12億ドルです。
資金の中心は中国国家開発銀行(CDB)からの融資で、全体の約75%を占めます。当初融資の金利は約2%でしたが、費用超過分には約3.4%の金利が付いています。
土地取得の遅れや工事の遅延、コロナ禍などが重なり、開業も当初予定の2019年から2023年へ遅れました。重要なのは、事業費が増えただけでなく、増加分にもあらためて融資が必要になったという点です。
利用者はいる。しかし借金を返せるほどではない
需要がまったくないわけではありません。ただ、巨額投資を回収できるだけの需要には届いていないのです。
KCICの発表によると、2025年の利用者は約620万人でした。1日平均にすると約1万7,000人です。初期の需要予測では年間1,800万人超、1日約5万人以上の利用が想定されていました。実績は、その約3分の1にとどまります。
需要予測はその後、1日約3万1,000人まで下方修正されましたが、2025年の実績は、その修正後の水準にも達していません。
それでも年間620万人が利用しているため、需要がないわけではありません。問題は、約73億ドルを投じた高速鉄道の建設債務を、運賃収入から返済できるほどの需要ではなかったことです。
なぜこの区間だったのか
全長142kmという短い区間で、起点のハリム駅はジャカルタ中心部から離れています。バンドン側も中心部へは乗り換えが必要です。駅までのアクセスには道路渋滞もあり、在来鉄道やシャトルバスといった代替手段も存在します。
乗車中は約40分でも、自宅から駅、駅から目的地までを含めると、高速鉄道による時間短縮は思ったほど大きくない場合があります。高速鉄道としての性能そのものより、どこをどう結ぶか、駅までどう移動するかという設計の部分に、課題があったように見えます。
日本ではなく中国を選んだ理由
2015年、日本案と中国案が競い合った末、中国案が選ばれました。当時のインドネシア政府にとって、中国案は魅力的に映りました。政府保証を求めない、国家予算を使わない、国営企業間の事業として進める、早期完成を約束する、技術移転を提示する——「国の予算を使わずに東南アジア初の高速鉄道を造れる」という、理想的な提案に見えたのです。
しかし実際には、費用超過、追加融資、政府保証、国営企業の損失が発生しました。中国に騙されたというより、魅力的な条件を十分に検証しないまま、インドネシア政府自身が選んだ結果だと見るのが公平だと思います。
債務を移しても、負担は消えない
現在、インドネシア側の60%持分は、PT. KAIを中心とする国営企業連合が保有しています。政府は、この60%持分と債務管理を、政府系投資機関のINA(インドネシア投資庁)や、財務省傘下のPT. SMI(サラナ・マルチ・インフラストラクチャ)などへ移す案を検討しています。移管は2026年9月15日を予定していますが、最終的な受け皿とスキームは、現時点では正式に確定していません。中国側は引き続き40%を維持する見込みです。
ただ、KAIも移管候補の機関も、いずれも国有・政府系の組織です。債務をKAIから別の政府系機関へ移しても、最終的なリスクが国民から切り離されるわけではありません。
プルバヤ財務相は、財務省傘下のSMVの中には年間3兆〜4兆ルピア程度の利益を計上する企業もあり、年間約1兆ルピアの返済であれば、一つのSMVでも処理できるとの見方を示しています。つまり「税金を直接投入するわけではない」という理屈です。しかし、それは公的な資産から生まれる利益です。Whooshの返済に使わなければ、国庫への配当や、ほかのインフラ投資などに活用できた可能性があります。これは債務の解消というより、負担する財布を変えているだけに近いのではないでしょうか。
80年返済で本当に大丈夫なのか
一般的な鉄道設備の更新周期を考えれば、80年の間に車両は複数回、信号・通信設備も何度か更新する必要があると考えられます。架線や変電設備、レールや分岐器の交換、高架橋やトンネルの大規模補修、駅設備の更新も避けられないでしょう。
いまの建設債務を返し終える前に、車両更新や大規模修繕のための新しい資金が必要になる可能性があります。返済を優先して保守費を削れば安全性やサービスが下がりますし、必要な補修を行えば、毎年の負担は政府が示す1兆ルピアだけでは済まなくなるかもしれません。融資が外貨建てであれば、80年間のルピア相場の変動も影響します。
1兆ルピアは約90億円です。仮に同程度の返済が続けば、10年間だけでも約10兆ルピアに達します。実際の返済額は年によって異なり、金利、元金、据置期間などの詳細もすべては公表されていません。
それでも、ジャワ島外を含む全国の国民が、この負担を長期間背負うことへの疑問は残ります。パプアや東インドネシアでは、水道や電気、港や冷蔵設備、道路といった生活・産業の基盤がまだ十分ではありません。巨額の資金を80年間Whooshに振り向ける一方で、地方には動いていない設備や、運営費のない施設が残っているのです。
私は最近、パプア州のジャヤプラやビアク島を訪れました。そこでは、立派な冷凍・冷蔵設備が造られていても、原料集荷や運営体制が整わず、十分に稼働していない施設を実際に目にしました。インフラは造れば終わりではありません。維持し、運営し、地域の産業につなげて初めて意味を持ちます。
もう止めることはできない
Whooshを止めても、債務は消えません。利用者は移動手段を失い、設備は劣化し、国際的な信用問題にも、中国との外交問題にもなりかねません。東南アジア初の高速鉄道という国家の象徴を失うことにもなります。
だから政府は、運行を続けながら、債務を長期化して支えるしかないのだと思います。問題はもはや、鉄道を存続させるかどうかではなく、この債務と将来の運営負担を、どの組織が、どの会計から、何年かけて支えるか、という点に移っています。
スラバヤ延伸は解決策になるのか
政府は、バンドンからスラバヤ方面へ延伸する構想も示しています。延伸すればネットワークとしての価値は上がり、航空機からの利用転換も期待できます。一方で、新たな巨額債務が発生することも避けられません。
現在の債務は80年間残ったまま、中国への金融・技術依存がさらに深まる可能性もあります。「バンドンまででは採算が取れないから、スラバヤまで延ばす」という判断は、事業を軌道に乗せる道にも、損失をさらに広げる道にもなり得ると思います。
Whooshは、走ることには成功しました。速く、快適で、利用する人にとっては便利な鉄道です。
しかし、鉄道を完成させることと、事業として成立させることは別の話です。返済期間を80年に延ばしても、債務が消えるわけではありません。KAIから政府系機関へ移しても、最終的なリスクが国民から切り離されるわけではありません。そして80年の間には、車両も設備も何度も更新する必要があります。
インドネシア政府は、Whooshを止めることも、手放すこともできません。走らせ続けながら、毎年少しずつ負担していくしかないのでしょう。
今回の債務再編は、問題を解決したというより、いまの問題を80年という長い時間の中へ薄く広げたように見えます。
東南アジア初の高速鉄道は、未来へ向かって走っています。しかし、その借金もまた、未来へ向かって走り続けることになりました。
出典:
ANTARA「Purbaya sebut cicilan utang Whoosh berkisar Rp1 triliun per tahun」(2026年9月8日)
Reuters「Indonesia to shift controlling stakeholder of China-funded railway next week」(2026年9月8日)