かつてロサンゼルスへ飛んでいた。ビアク島に3.6kmの滑走路がある理由

Airplane Indonesia

記事の冒頭
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パプア州ビアク島の小さな空港には、全長約3.6kmの巨大な滑走路があります。日本軍による建設、オランダ統治時代の拡張、KLMの国際航空網、そしてガルーダのホノルル・ロサンゼルス線。現在は静かな地方空港となったフランス・カイシエポ空港を訪れ、太平洋を渡る航空機の中継地だった歴史と、一万ルピア札に描かれた人物とのつながりをたどりました。

ジャヤプラの次に降り立ったのは、ビアク島でした。

フランス・カイシエポ空港に着陸し、ターミナルへ向かって誘導路を進んでいたとき、窓の外にふと目をやると、滑走路がまだずっと先まで伸びていました。乗ってきたのはB737です。その機体が小さく感じられるほどの規模が、妙に印象に残りました。

この空港を発着する定期便は、決して多くありません。行き先はジャヤプラ、マカッサル、ソロンなど数都市に限られ、便数も多くはありません。ターミナルも小さく、いかにも地方空港といった佇まいで、大きな国際空港の面影はどこにも見当たりませんでした。

そのなかで、この空港がかつて別の顔を持っていたことを物語っていたのが、3,571m、幅45mの滑走路でした。インドネシア国内でも有数の長さで、ボーイング747クラスの大型機も受け入れられる規格だといいます。

小さな地方空港に、なぜこれほど長い滑走路があるのか。降り立ってから、その理由をたどってみることにしました。

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空港の名前は、一万ルピア札の人物

「Frans Kaisiepo」という空港名を見て、どこかで見た名前だと思いました。

その顔は、インドネシアで日常的に使われている一万ルピア札に描かれています。

フランス・カイシエポは、ビアク島出身の政治家です。1964年から1973年まで、当時の西イリアンの第4代知事を務め、インドネシアへの統合に尽力した人物として、後に国家英雄に認定されました。その肖像が、2016年発行の一万ルピア札に採用されています。

インドネシアで何度も手にしてきた一万ルピア札。その人物の故郷に、自分が来ていたことを、このとき初めて知りました。

始まりは、太平洋戦争

ビアク島が重要視された理由は、その位置にあります。

島はニューギニア島の北岸、太平洋に面する場所にあり、日本、東南アジア、オーストラリア、太平洋諸島を結ぶ位置にあります。

1943年、日本軍はビアク島のアンブロベン海岸沿いに、モクメル飛行場を建設しました。滑走路の長さは2,000mだったとされています。翌1944年5月、連合軍がビアク島に上陸しました。日本軍との激しい戦闘が続き、6月にはモクメル飛行場が連合軍側の手に渡ります。

この空港の出発点は、観光でも地域交通でもなく、太平洋の軍事拠点だったのです。

オランダが、大型機の飛べる国際空港に育てた

戦後、旧オランダ領ニューギニアを統治したオランダは、1952年からモクメル飛行場を商業航空用に整備し始めます。空港の近くには、KLMによって「RIFホテル」も建設されました。それだけでも、ビアクを国際航空網の拠点にしようとしていたことがうかがえます。1959年までには、滑走路も約3,570m、幅45mまで拡張されました。

当時のビアクは、オランダとニューギニア、オーストラリア、アジアを結ぶ航空ネットワークの中継地点で、KLMが長距離路線の給油地として利用していたといわれています。

日本軍が造った2,000mの飛行場は、オランダ統治時代に約3.6kmまで延ばされました。私が窓から見た長い滑走路は、この時代に造られたものだったのです。1984年5月9日、空港の名前は「モクメル」から「フランス・カイシエポ」に改められています。

ビアクから、ホノルル、ロサンゼルスへ

その後、ビアク空港は再び太平洋を渡る国際線の中継地になります。

1990年代、ガルーダ・インドネシア航空は、ビアクを経由してアメリカへ向かう太平洋横断路線を運航していました。空港公式サイトによると、1996年から1998年まで運航された代表的なルートは、

ジャカルタ―デンパサール―ビアク―ホノルル―ロサンゼルス

というもので、MD-11などの大型機がビアクに降り立ち、ここで給油して太平洋を横断していきました。

今は主にジャヤプラやマカッサルなどを結ぶ国内線の拠点となっているビアクから、かつてはホノルルやロサンゼルスへ向かうことができたのです。ビアクからロサンゼルスへ。今の静かな空港を見ていると、すぐには信じられない話でした。

太平洋に面し、赤道に近いビアクは、当時の航空機にとって、アメリカへ渡るための重要な中継地点だったのでしょう。

アジア通貨危機で、太平洋路線は消えた

しかし、ビアクを経由するアメリカ路線は、長くは続きませんでした。

1997年に始まったアジア通貨危機は、インドネシア経済とガルーダの経営に大きな打撃を与え、1998年頃までにアメリカ路線は運休してしまいます。

その後、航空機の航続距離は延び、太平洋を渡るためにビアクで給油する必要もなくなっていきました。空港そのものが衰退したというより、ビアクが担っていた「中継地」という役割が、時代とともに失われていったのでしょう。

滑走路だけが残った、静かな空港

現在のビアク空港から出ている直行便は、ジャヤプラ、マカッサル、ソロンなど数都市に限られます。

ターミナルは小さく、かつての国際空港らしい設備や建物は、もうほとんど見当たりません。ターミナルの小ささと、目の前に伸びる長い滑走路。その不釣り合いな組み合わせに、この空港の過去が残っていました。

ビアクが世界とつながっていた時代

ビアク空港の滑走路が長いのは、将来の需要を見込んで造られたからではありません。日本軍が建設した飛行場を、オランダが国際航空の中継地として拡張し、その後はガルーダのホノルル・ロサンゼルス線が利用しました。

今、この滑走路を離陸するのは、主にジャヤプラやマカッサルへ向かう国内線です。

着陸してターミナルへ向かう誘導路から見た、あの長い滑走路を思い出します。かつてはそこをMD-11が走り、ホノルルの先のロサンゼルスへ向かっていました。

一万ルピア札に描かれた人物の故郷から、かつて飛行機が太平洋を横断していた。その痕跡が、今も約3.6kmの滑走路として残っています。

記事の最後
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