マカッサルで暮らす。比べなくなった。
最初は、何でも、日本と比べていました。
日本なら、もっと早いのに。 日本では、こんなことは起きないのに。 日本の方が、きっと正確だ。
工場で機械が止まれば、日本のメーカーの対応の速さを思い出しました。 書類にサインを一つもらうだけで何日も待たされると、日本の役所の窓口を思い出しました。 渋滞に巻き込まれれば、日本の道路を思い出しました。 食堂で注文したものが、頼んだものと少し違って出てきても、日本の店員の正確さを思い出しました。 何かにつけて、頭の中で、日本と、この街を並べていました。
比べるたびに、少し疲れていたと思います。 どちらが良いか、結論を出そうとしていたのかもしれません。 そして、たいてい、この街の方が、不便だという結論に落ち着きました。
いつからか、その比べる作業を、しなくなっていました。
いつ気づいたのか、はっきりとは覚えていません。 ただ、ある日、機械の修理を待ちながら、ふと気づきました。 以前なら、苛立ちながら、日本の対応の速さを思い出していたはずです。 その日の私は、ただ、「もう少しかかりそうだな」と思いながら、コーヒーを飲んでいました。 比べる相手が、いつの間にか、頭から消えていたのです。
渋滞にはまっても、「マカッサルだから」と思うだけで、日本の道路は、頭に浮かばなくなりました。 書類が遅れても、「そういうものだ」と思うだけで、日本の役所のことは、思い出さなくなりました。
先日、日本から来た知人に、「日本と比べて、ここはどうですか」と聞かれたとき、少し困ってしまいました。 悪い意味ではありません。 ただ、答えが見つからなかったのです。 結局私は、「さあ、どうでしょう」と、曖昧に笑って答えるしかありませんでした。
工場でも、同じ変化がありました。 以前の私は、スタッフの作業を見るたびに、日本の工場での基準を、頭のどこかで当てはめていました。 「日本なら、この作業はもっと速い」 そう思うたびに、指示の言葉に、少し棘が混じっていたと思います。 今は、スタッフの作業を見ても、そういう比較が浮かびません。 ただ、この工場の、この人たちの、いつものやり方として、見ています。 基準を当てはめなくなった分、注文の仕方も、少し変わったと思います。
以前は、
日本なら。 日本では。
そんな言葉が、頭の中に、何度も浮かんでいました。
今は、
そんな言葉を、ほとんど思い出しません。
それだけのことなのに、この街の見え方は、ずいぶん変わりました。
比べなくなったとき、 この街は、 「海外」ではなく、 ただの、暮らす場所になっていました。