マカッサルで暮らす。一日は、アザーンから始まる。
朝の四時台に、最初のアザーンが鳴ります。 まだ空も暗い時間です。 近所のモスクから、少し掠れたスピーカー越しに、祈りの声が街に流れていきます。
引っ越してきたばかりの頃、私はこの音で、必ず目を覚ましていました。 布団の中で、しばらく息を潜めるようにして、その声を聞いていたのを覚えています。 自分が、まったく違う国にいるのだということを、朝一番に思い知らされる音でした。
マカッサルに来て最初の夜のことを、今でもよく覚えています。 荷物もまだ片付いていない部屋で、時差ぼけのまま横になっていたら、暗闇の中で、あの声が聞こえてきました。 一瞬、何が起きたのか分からず、体を起こしてしまいました。 スマートフォンで時間を確認すると、まだ夜明け前でした。 「これから、こんな朝を毎日迎えるのか」 そう思いながら、なかなか寝付けなかったことを覚えています。
正直に言えば、最初は少し苦手でした。 眠りを妨げられている、という感覚もありました。 日本にいた頃の朝は、目覚まし時計が鳴るまで、誰にも邪魔されない時間だったからです。
けれど、一日は、それだけでは終わりません。
昼になれば、二度目のアザーンが鳴ります。 工場では、その時間になると、何人かの従業員が、手を止めて祈りの場所へ向かいます。 最初の頃、私は少し戸惑いました。 仕事の途中で手を止めることに、経営者として落ち着かない気持ちもありました。 けれど、彼らはすぐに戻ってきます。 何事もなかったかのように、また仕事に戻っていく。 その姿を見ているうちに、私の中で、何かが少しずつ変わっていきました。
ある従業員は、祈りから戻ってくると、いつも少しだけ表情が違います。 何を話したわけでもないのに、そのことに気づいたのは、私だけではなかったようです。 古参のスタッフが、「あの時間だけは、誰も急かさない方がいいですよ」と、笑いながら教えてくれたことがあります。 日本であれば、就業時間は会社が決めるものでした。 ここでは、一日の中に、会社が決めない時間が、いくつも組み込まれています。 最初は、それを非効率だと感じていました。 今は、その時間があることで、むしろ皆が落ち着いて働けているのだと思うようになりました。
夕方になれば、また別のアザーンが聞こえてきます。 一日のうちで、私が一番好きな時間です。 仕事を終えて外に出ると、街全体が、祈りの声に包まれているような感覚になります。 その声を聞きながら家路につく時間が、いつしか、私にとっての「一日の終わり」の合図になっていました。
ラマダンの月になると、夕方のアザーンが鳴った瞬間、街全体が、ほっと息をついたような空気になります。 屋台には食べ物が並び、道端では、知らない誰かが誰かに飲み物を手渡している。 初めてその光景を見たとき、私は言葉より先に、その空気を好きになっていました。
不思議なもので、最初は「邪魔だ」とさえ思っていた音が、今では、私の生活の背骨のようなものになっています。 朝、あの声が聞こえると、体が自然に一日の始まりを認識します。 それは、目覚まし時計が鳴るのとは、少し違う感覚です。 誰かに起こされているというより、街全体と一緒に、一日を始めているような感覚です。
先日、日本に一時帰国したときのことです。
夜、ホテルの部屋で目を覚ましました。
耳を澄ませます。
静か。
車の音も、人の声も、何もありません。 本来なら、心地よい静けさのはずです。
けれど、落ち着きません。
布団の中で、じっとしたまま、耳を澄ませ続けます。
何かが、足りない。
天井を見つめながら、その正体を探します。
しばらくして、気づきました。
アザーンが、聞こえないのです。
思わず、小さく笑ってしまいました。 五年前は、あの音に眠りを妨げられ、寝返りを打っていた自分がいたはずです。 今度は、その音がないことに、寝返りを打っている。 同じ寝返りでも、意味はまったく逆になっていました。
五年前の私にとって、あの音は、眠りを妨げる、異国の音でした。 今の私にとって、あの音は、一日を支えてくれる音になっていました。