マカッサルで暮らす。急がないという豊かさ。
「あと5分で着きます。」
マカッサルに来たばかりの頃、私はこの言葉を、そのまま信じていました。
日本では、この言葉は、本当に5分後を意味していたからです。
けれど、ここでは違いました。 5分のはずが、30分待つことも、珍しくありませんでした。
最初の頃は、毎回、腹を立てていました。
集荷のトラックが来ない。 通関の書類が、なかなか進まない。 問い合わせても、「Besok(明日)」という返事が返ってくる。
日本では、遅れると理由を説明するのが当たり前でした。 ここでは、理由を聞いても、「今日はそういう日だから」とでも言うような表情で笑われることがあります。 最初は戸惑いましたが、その笑顔の意味を理解するまで、それほど時間はかかりませんでした。
ある日の工場でのことです。
タコを処理するスタッフの手は、私が思うより、ずっとゆっくりでした。 社内には、作業時間の基準がありました。 けれど、彼らの手は、いつもその基準より、少しだけ長く動いていました。
急いで次の工程に進めたい私は、何度も「そのくらいで十分ですよ」と言いたくなりました。
ある日、思わず、古参のスタッフに聞きました。
「もう基準は満たしていると思いますが」
彼は、手を止めずに、こう答えました。
「もう少しだけ」
それだけでした。
その一言で、私は何も言えませんでした。 基準を満たしているかどうかなら、私の方がよく知っていたはずです。 けれど、彼らが「もう少しだけ」を惜しまなかった日のタコは、いつも心なしか柔らかく仕上がっていました。 急いで基準通りに終わらせたタコと、基準を超えて手をかけたタコ。 その差は、数字には表れません。 けれど、茹で上がったときの身の締まり方には、確かに表れていました。 私が「無駄な時間」だと思っていたものは、柔らかさを作るための時間だったのです。
急がずに待った先に、急いでいたら手に入らなかった柔らかさがあったのです。 そのとき初めて、「急がない」ということが、単なる我慢ではなく、何かを豊かにする時間でもあるのだと気づきました。
それに気づいてから、この街のいろいろなことが、少し違って見えるようになりました。
雨が降れば、港の積み込みは止まります。 出荷の予定も、当然のように動きます。 最初は、そのたびに苛立っていました。 「なぜ、こんな日に休むのか」と。 けれど、無理に船を出しても、荷物が傷むだけだということを、私は少しずつ理解していきました。
停電も、同じです。 工場のラインが止まっても、誰も慌てません。 復旧を待ちながら、従業員たちは、日陰で世間話を始めます。 私だけが、時計を見ながら、一人で焦っていました。 けれど、あるとき気づきました。 その止まった数十分の中で、普段は聞けない従業員の家族の話や、故郷の話を聞くことがありました。 効率だけを考えていたら、決して生まれなかった時間です。
礼拝の時間、渋滞、天候。 どれも、怒ったところで、何も変わりませんでした。
以前の私なら、こう言っていたと思います。
「急いでください」
今は、こう言えるようになりました。
「分かりました」
急ぐことをやめたわけではありません。 急いでも、変わらないことがあると、知っただけです。
時計が時間を決めているのではなく、その土地の暮らしが、時間を決めている。 そのことを、この街で初めて知りました。
日本にいた頃の私は、「時間を守ること」が正しいと思っていました。 今でも、その考えは変わりません。
けれど、マカッサルで暮らして、もう一つ知ったことがあります。
急ぐことと、 焦ることは、 同じではないということです。
急ぐべき時は、もちろんあります。 でも、どうにもならないことまで、焦り続ける必要はない。
急がなかった時間の中に、 あの日のタコの柔らかさがあり、 従業員たちの家族の話があり、 私が知らなかった、この街の顔がありました。 急がないことは、失うことではなく、何かを受け取るための時間だったのだと、今は思います。
海は、今日も、私より少しだけ、ゆっくり時間を進めています。
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