思い通りにならない場所で。ありがとう、は給料より難しかった。
「少しお休みをいただけますか」
そう言って彼女が事務所へ入ってきた朝のことを、今でも覚えている。 いつも笑顔だった彼女の顔は、その日だけ青ざめていた。
「父が倒れました」
「もちろん。家族の方が大事だから」
私の口は、考えるより先に動いていた。
彼女の実家は、車で数時間かかる村にあった。
数日後、私は経理担当のもう一人のスタッフに、少しだけお金を託した。
「実家へ行くなら、これも一緒に届けて」
大きな額ではなかった。 ただ、何もしないままでいることの方が、落ち着かなかった。
彼女が戻ってきたのは、それから二週間後だった。
いつもどおり、朝早くから机に向かい、いつもどおり、数字を丁寧に確認していた。 特別なことは、何も言われなかった。何事もなかったように、日々が続いていった。
変化があったのは、それから一か月ほど経った、給料日でもない、何でもない火曜日のことだった。
彼女が、事務所を出る間際に、私のところに来て、こう言った。
「Terima kasih.」 ありがとうございます。
なぜ今、と思って理由を聞いた。 彼女は少し照れたように笑って、こう続けた。
「あのとき、家族のことを心配してくれたから」
給料の話ではなかった。 ボーナスの話でも、待遇の話でもなかった。
私は、給料をきちんと払うことが、信頼につながると信じていた。
きちんと払う。遅れない。約束を守る。 それさえできれば、人はついてきてくれると信じていた。
でも、彼女が見ていたのは、会社の制度ではなく、 社長という一人の人間だったのだと、あのとき初めて分かった。
給料を払うことは、契約を守ることだ。 「ありがとう」と言われることは、人として向き合ったことへの返事だった。
あの日から、 給料日よりも、 「Terima kasih.」 の一言が、 私には重たくなった。
その言葉は、 給料では受け取れないものだった。