第5話
タコ屋に入ってから、私は全国を飛び回るようになりました。
スーパー、市場、問屋。タコを売るために、北から南まで、いろいろな街を訪ねました。
もともと旅行が好きだった私にとって、出張は苦ではありませんでした。知らない土地へ行き、初めての人に会い、その土地のものを食べる。仕事ではありましたが、新しい場所へ行けることが、単純に楽しく、充実していました。
国内だけではありませんでした。タコの製品を作る海外工場を見るため、中国やタイにも出張させてもらいました。そこで初めて見た海外の工場は、日本とはまったく違うものでした。
何より驚いたのは、人の多さです。広い工場の中に、何十人、何百人という人が並び、それぞれの工程を担当している。日本では機械を使うような作業にも、多くの人が配置されていました。
原料が工場に入り、選別され、加工され、製品になり、箱に詰められていく。営業として商品を売っていた私にとって、自分が売っているタコが、海の向こうでどう作られているのかを見ることは、とても新鮮でした。
それでも、私の仕事の中心は、あくまで営業でした。
やがて営業課長となり、個人の売上だけではなく、営業全体の数字にも責任を持つようになりました。工場に対しても、「もっと早く作れないか」「この納期に間に合わせてほしい」「このクレームを何とかしてほしい」。そんなことを言う側でした。生産する側の苦労を、本当の意味では分かっていなかったのだと思います。
そんな私の仕事が大きく変わったのは、2011年3月でした。
東日本大震災です。
工場も被災しました。幸い、津波の被害はありませんでした。しかし、倉庫や冷蔵庫として使っていた旧工場の屋根が飛び、しばらくタコを出荷できない状況になりました。
それまで当たり前のように商品を作り、当たり前のように出荷していた工場が、突然動かなくなる。営業としてできることは、ほとんどありませんでした。とにかく、一日でも早く復旧する。会社全体が、そのことに必死でした。
そんな中、私は思いもしなかった話を告げられました。
「工場長をやってくれないか。」
営業しかやってこなかった私が、工場長。正直、「なぜ、私なんだ。」と思いました。製造の専門家でもありません。機械のことに詳しいわけでもありません。
それまで私は、工場に「作ってくれ」とお願いする側でした。
それが突然、「作る側」の責任者になったのです。しかも、被災した工場を改修するプロジェクトまで任されることになりました。
ただ、一つだけ、私にも分かることがありました。営業として、工場に対してずっと思ってきたことです。お客様からクレームが来ない商品を作りたい。安心して取引先に提案できる商品を作りたい。きちんと衛生管理のできる工場にしたい。
それまで不満を言う側だった自分が、今度は答えを出す側になった。
だったら今度は、自分がそれを作る側に回ればいい。そう考えるようになりました。
工場の改修では、HACCPを意識した衛生管理や、人と商品の動線、作業しやすいラインなど、一つひとつ見直していきました。営業なら、売れたか売れなかったか、数字ですぐに結果が見えます。でも工場は違いました。人が動かなければ、ラインは動かない。品質に問題があれば、作った商品を出荷することすらできない。営業とはまったく違う難しさがありました。
それでも、少しずつ工場が変わっていきました。改修した場所がきれいになり、作業の流れが変わり、問題が一つずつ減っていく。そして、新しい工場も立ち上がりました。
工場長として過ごしたのは、三年ほどでした。決して長い期間ではありません。でも、新しいラインが動いているのを眺めたとき、
「やり切ったな。」
そう思ったことを、今でも覚えています。
営業しか知らなかった自分が、工場をつくる側になっていました。
もちろん、その頃の私は知りません。何年も後に、日本から五千キロ離れたインドネシアで、今度は自分の会社の工場を持つことになるなんて。
冷凍機を考え、加工ラインを考え、品質を考え、スタッフと一緒に生産を考える。今、マカッサルの工場で毎日のようにやっていることの多くを、私はすでに、あの震災後の工場で経験していました。
当時は、壊れた工場を元に戻すことだけで必死でした。それが何年も後、自分の工場をつくるための経験になるなんて、考えたこともありませんでした。
営業しか知らなかった私が、
突然、工場長になった三年間。
あの頃は、ただ必死でした。
でも今、
マカッサルの工場に立っていると、
ときどき思います。
あの三年間がなかったら、
今の私は、ここに立てていただろうか。
人生は、伏線だらけだった。
続く。