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マカッサル空港の名前になった「スルタン・ハサヌディン」とは誰なのか

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空港前の像

タクシーなどで空港へ向かうと、到着する少し前に必ず大きな像の前を通ります。腰に手を当てて伝統衣装をまとった、あの堂々とした像です。「SULTAN HASANUDDIN」という文字も一緒に写っているので、写真だけは何枚も撮っていました。でも、正直に言うと、この人物が具体的に何をした人なのか、恥ずかしながらきちんと知らないまま過ごしてきました。調べてみると、そこにはゴワ王国とVOC、さらに南スラウェシの諸勢力を巻き込んだ複雑な歴史がありました。

ゴワ王国と自由貿易港マカッサル

スルタン・ハサヌディンは1631年にゴワ王国で生まれ、1653年から1669年まで第16代国王としてこの国を治めた人物です。

当時のゴワ王国は、現在のマカッサル周辺を中心とした海洋国家でした。マカッサル港には中国、アラブ、インド、ポルトガルなど各地の商人が集まり、東南アジアでも有数の自由貿易港として栄えていたそうです。今のマカッサルにも、どこか人を受け入れる開放的な空気があるように感じますが、その原点は案外このあたりにあるのかもしれません。

VOCとの対立の背景

この王国とオランダ東インド会社、いわゆるVOCが激しく対立した理由は、香辛料貿易でした。VOCはモルッカ諸島産の香辛料を独占し、自分たち以外との取引を許さない方針を取っていました。一方のゴワ王国は、マカッサル港を誰もが使える自由な港として維持しようとしていた。ここがぶつかったわけです。

ただ、話はそう単純でもありません。ゴワ王国と対立していたブギス系のボネ王国がVOCと手を組む一方、マカッサルには、ポルトガルがVOCにマラッカを奪われた後に移ってきたポルトガル系商人も多く、VOCの独占に縛られない交易を続けていました。つまりこの戦いは、「インドネシア対オランダ」という構図だけでなく、南スラウェシ内部の政治的な対立と、ヨーロッパの貿易独占の思惑が絡み合った、かなり複雑な争いだったということです。

東方の雄鶏

激しく抵抗を続けたハサヌディンは、オランダ側から「東方の雄鶏」と呼ばれたと伝えられています。インドネシア語では「Ayam Jantan dari Timur」。単に勇敢だったというだけでなく、簡単には屈しない指導者としてのイメージが、この呼び名には込められているように思います。

マカッサル戦争とボンガヤ条約

対立が本格的な戦争になったのは1666年のことです。同年11月、VOCはコルネリス・スペルマン率いる艦隊を派遣し、ゴワ王国への攻撃を強めていきます。VOCはボネ王国のアルン・パラッカと連携し、南スラウェシの地域勢力を巻き込みながらゴワを追い詰めていきました。

1667年11月、両者はボンガヤ条約を結びます。ゴワ側はVOCの貿易独占を認め、要塞を引き渡し、ボネ王国の独立を認めるなど、非常に厳しい条件を受け入れることになりました。それでもハサヌディンは戦いをやめませんでした。各地で抵抗が続きましたが、バタヴィアから送られた増援によって、1669年6月、ゴワ王国の中心要塞であったソンバ・オプがついに陥落します。ハサヌディンはその後退位し、翌1670年6月12日、39歳でこの世を去りました。

ボンガヤ条約によって、ゴワ王国が築いたウジュン・パンダン要塞はVOCへ引き渡されました。VOCのコルネリス・スペルマンはこれを改修し、自身の故郷にちなみ「フォート・ロッテルダム」と改称します。今も市内に残るこの要塞は、ゴワ王国の要塞がVOCの拠点へと変わっていった歴史を伝える建造物です。

英雄の物語の裏側

インドネシアでは「VOCと勇敢に戦った英雄」として語り継がれていますが、実際には同じ南スラウェシの勢力、とりわけアルン・パラッカを中心とするボネ側がVOCと共に戦っていたという事実もあります。そう考えると、これは外国勢力に抵抗した英雄の物語だけではなく、南スラウェシ内部の主導権をめぐる戦争でもあったことが分かります。

空港名として残った理由

スルタン・ハサヌディン国際空港の前身となる飛行場が建設されたのは、オランダ植民地時代の1930年代です。当初はカディエン飛行場、その後はマンダイ空港などと呼ばれ、1980年、滑走路の拡張に合わせてハサヌディンの名が付けられました。1994年には国際空港として位置づけられ、現在のターミナルは2008年に開業しています。

ちなみに、この空港は行政区域上、マカッサル市ではなく隣接するマロス県にあります。それから、空港コードが、ハサヌディンの名前からは連想しにくい「UPG」なのは、マカッサル市が1971年から1999年まで「ウジュン・パンダン」と呼ばれていたことに由来するとされています。マカッサルという名前に戻ってから四半世紀以上たった今も、空港コードにはウジュン・パンダン時代の名前が残っています。

今も残るハサヌディンの名

南スラウェシでは、空港以外にもハサヌディンの名前をよく目にします。ハサヌディン大学、ハサヌディン空軍基地、インドネシア海軍艦艇のKRIスルタン・ハサヌディン、市内のスルタン・ハサヌディン通り。学校や病院の名前にも使われています。1973年には、インドネシア政府から国家英雄にも認定されています。

これまで何気なく通り過ぎていた像でしたが、背景を知ってから見ると、少し違って見えるようになりました。マカッサルはかつて各地の商人を受け入れる自由な港として栄え、その交易の仕組みを守るためにVOCと戦いました。その歴史を知ると、空港の入口にハサヌディンの像が立っている理由も、少し分かるような気がします。

記事の最後
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kenji kuzunuki

葛貫ケンジ@インドネシアの海で闘う社長🇮🇩 Kenndo Fisheries 代表🏢 インドネシア全国の魅力を発信🎥 タコなどの水産会社を経営中25年間サラリーマン人生から、インドネシアで起業してインドネシアライフを満喫しています。 インドネシア情報だけでなく、営業部門に長年いましたので、営業についてや、今プログラミングを勉強中ですので、皆さんのお役にたつ情報をお伝えします。