第9話
2015年。
私は、マカッサルの水産加工工場に立っていました。
目の前にあるのは、インドネシアで獲れたタコ。周りにいるのは、インドネシア人の工場スタッフ。ここで、日本で作ってきたようなタコを作る。JICAの普及・実証事業が、いよいよ始まりました。
計画は、かなり大きなものでした。インドネシアでタコが獲れる場所を探す。漁師からタコを集める。鮮度を落とさず工場まで運ぶ。現地の工場で加工する。衛生管理の方法を伝える。そして、出来上がった商品をインドネシアだけでなく、日本や海外でも販売する。
紙に書けば、数行です。でも、目の前に工場とタコと人がいると、それまで提案書に書いていた言葉が、急に現実のものになりました。
私たちが扱おうとしていたのは、インドネシアで獲れる「縞タコ」でした。2012年、日本の工場で初めて見たとき、「これを日本のお客さんが買ってくれるだろうか。」そう思った、あのタコです。
あのときは、インドネシアへ行ったことすらありませんでした。それから三年。今度は私の方が、そのタコのいる場所までやって来ていました。
私たちが日本から持ってきたのは、機械だけではありませんでした。長年タコを扱ってきた中で身につけた加工の方法。どうすれば柔らかく、おいしくできるのか。どうすればきれいな商品にできるのか。そして、工場をどう衛生的に管理するのか。そうした「日本では当たり前にやってきたこと」を、インドネシアの現場で一つずつ形にしていくことになりました。
そして、ここで思いがけず役に立ったのが、工場長だった三年間でした。
震災後、突然営業から工場長になったとき、私は「なぜ自分なんだ」と思いました。でも、マカッサルの工場に立つと、見るところは自然と分かりました。
加工ラインを見る。人の動きを見る。原料の状態を見る。温度を見る。衛生状態を見る。そして、「ここをこうしたら、もっと良くなる。」と考える。日本の工場で何度も繰り返してきたことでした。
あの頃は、ただ必死に工場を立て直していただけでした。それが数年後、五千キロ離れたインドネシアで、そのまま自分の仕事になっていました。
もちろん、日本と同じようにはいきません。言葉も違う。設備も違う。働き方も違う。そして何より、相手は日本ではほとんど使われてこなかった縞タコです。どう加工すればいいのか。どんな商品にすれば売れるのか。どこまで日本のやり方が通用するのか。答えはありませんでした。
だから、やってみるしかありませんでした。タコを集める。加工してみる。食べてみる。うまくいかなければ、やり方を変える。そして、また作る。そんなことを繰り返していきました。
気がつけば私は、マカッサルの工場で、インドネシアの人たちと一緒に、インドネシアのタコを作っていました。
2012年、日本の工場にやって来た一匹の縞模様のタコ。あのタコを見たときには、想像もしなかった光景でした。
そして、もう一つ。震災のあと、突然工場長を任されたときにも、想像していなかった光景でした。
あのとき身につけたことも、あのとき出会ったタコも、別々の出来事だと思っていました。それが、マカッサルでつながり始めていました。
この頃の私は、
これを「実証事業」だと思っていました。
期限のあるプロジェクト。
終われば、日本へ帰る。
それくらいに思っていました。
まさか何年も後、
会社を辞め、
自分で会社をつくり、
もう一度この街へ戻ってくることになるとは。
もちろん、まだ知りませんでした。
人生は、伏線だらけだった。
続く。