夕方になると、私は海へ行きます。
特に用事があるわけではありません。誰かと待ち合わせているわけでもない。ただ、沈んでいく太陽を見るために、海辺に座ります。
空がオレンジに染まり、やがて赤くなり、水平線の向こうへ消えていく。
その間、何も考えないことがあります。今日の仕事のことも、明日の予定のことも、頭から消えて、ただ目の前の景色だけがある。
日本にいた頃、こんな時間を持てるとは思っていませんでした。
夕方は常に、次の何かに向かっている時間でした。
でも今は違う。
55歳の私は、マカッサルの海辺で、毎日少しだけ、ぼんやりする時間を持っています。
これが、50歳で会社を辞めた私が手に入れたものの、一つです。
50歳で会社を辞めたあの日、私は自分の人生がどうなるのか分かりませんでした。
成功する保証など、どこにもありませんでした。むしろ、不安の方がずっと大きかった。本当にこれで良かったのだろうか。何度も自分に問いかけました。
もし時間を戻せるなら、違う選択をしていただろうか。そんなことを考えた夜も、一度や二度ではありません。
しかし今、海辺に座りながら思うのです。
あの決断がなければ、この夕日は見ていなかった。
それだけで、十分だと思っています。
5年が経った今、「成功しましたね」と言われることがあります。でも私は、少し違うと思っています。
会社はまだ完成していません。工場もまだ発展途上です。新しい課題は次々に出てきます。思い通りにいかないことの方が、今でも多いくらいです。
だから私は、自分のことを成功者だとは思っていません。むしろ、今でも毎日勉強中です。
それでも、人生は変わった
では、何が変わったのでしょうか。
会社でしょうか。売上でしょうか。海外で暮らしていることでしょうか。
今振り返ると、そのどれでもありません。
一番変わったのは、自分自身でした。
以前の私は、正しい答えを探していました。失敗しない方法を探していました。でも今は違います。正解がなくても、一歩踏み出せるようになりました。変化を恐れるよりも、変化の中に面白さを見つけられるようになりました。
それが、この5年間で一番大きく変わったことです。
この連載の第1話に、こんなことを書きました。
「人生は思ったより長い。でも、思ったより短い。」
55歳になった今も、その感覚は変わりません。
でも今は、続きがあります。
思ったより長くて、思ったより短い人生の中に、まだ知らない景色が残っている。
若い頃の私は、50歳を人生の後半だと思っていました。ここから先は、大きく変わることはない。そんなふうに考えていました。
でも実際は違いました。
55歳になった今でも、初めて見る景色があります。初めて出会う人がいます。初めて経験する失敗があります。初めて感じる喜びがあります。
私はインドネシアへ来て、それを知りました。50歳を過ぎても、人生にはまだ知らない景色がたくさん残っているのです。
私は、「人生は何歳からでもやり直せる」とは思っていません。
20代には戻れません。30代にも戻れません。失った時間は戻ってきません。
でも、人生は広げることができます。
新しい国へ行くこと。新しい仕事を始めること。新しい趣味を持つこと。新しい人と出会うこと。どれも、人生を少しずつ広げてくれます。
私にとって、それがインドネシアでした。
マカッサルという第二の故郷ができました。日本という国を改めて好きになりました。新しい仲間ができました。新しい価値観に出会いました。
人生をやり直したのではありません。人生を広げたのです。
この連載を読んでくださっている方の中には、何かを始めようか迷っている方もいるかもしれません。
転職。独立。移住。資格への挑戦。新しい趣味。
どんなことでも構いません。
私は起業を勧めたいわけではありません。海外へ行くことを勧めたいわけでもありません。
でも、一つだけ言えることがあります。
「もう遅い」と思った時が、本当に遅いとは限りません。
一歩踏み出したからといって、人生が劇的に変わるとは限りません。でも、その一歩が、今まで見たことのない景色を見せてくれることがあります。
少なくとも私にとっては、そうでした。
50歳で会社を辞めた私が、本当に手に入れたもの。
それは会社でもありません。お金でもありません。成功でもありません。
夕日を見ながらぼんやりできる時間。
第二の故郷と呼べる街。
信用を積み重ねてきた仲間たち。
遠くから支えてくれた家族。
そして何より、
「人生には、まだ新しい可能性がある」と心から思えるようになったこと。
その実感は、これから先の人生で、誰にも奪われることはありません。
この連載では、50歳で会社を辞めたこと、不安だったこと、失敗したこと、時間について考えたこと、マカッサルという第二の故郷、日本という国への思い、そして海外で気付いた日本人の強さと弱さについて書いてきました。
どれも、インドネシアで過ごした5年間の中で、本当に感じたことです。
もし会社を辞めなかったとしても、きっと違う幸せがあったと思います。でも今の私は、この人生で良かったと心から思っています。
なぜなら、50歳を過ぎても、人は新しい景色に出会えることを、自分自身の人生で知ることができたからです。
人生は、一度きりです。
でも、一度しか変われないわけではありません。
そして、もしこの連載が、誰かの人生を少しだけ広げるきっかけになれたなら、それ以上にうれしいことはありません。