インドネシアの高速鉄道「WHOOSH(ウーシュ)」は、日本では「中国に騙された失敗プロジェクト」と語られることが少なくありません。しかし、実際にインドネシアで生活していると、その評価はもう少し複雑です。建設費超過や借金問題は事実ですが、一方で利用者は増え続けています。現地で感じるWHOOSHの「本当の評価」について、インドネシア在住者の視点からお伝えします。
インドネシアの高速鉄道WHOOSHについて、日本のメディアやSNSでしばしば目にする表現があります。
「中国の一帯一路の失敗例」
「インドネシアが中国に騙されたプロジェクト」
「巨額赤字を抱える負の遺産」
確かに根拠はあります。建設費は当初の見積もりを大幅に上回り、開業は遅れ、中国からの借款による負債は今も重くのしかかっています。投資案件として見れば、「本当に採算が取れるのか」という疑問が出るのは当然です。
でも、インドネシアに住んでいると、この「失敗」という評価に、どうにも引っかかりを感じます。
私はWHOOSHにこれまで10回ほど乗っています。しかし、日々インドネシアで暮らしていると、日本で語られる評価と現地で感じる空気には、かなり温度差があるように思えるのです。
何が引っかかるのか。
「数字や政治の文脈」からの評価は多く目にするのですが、実際に乗っている人たちの声が、なかなか見えてこないのです。
建設費の超過や債務問題は確かに重要です。ただ、ジャカルタ―バンドン間を実際に行き来している人たちがどう感じているか——その視点が議論に加わると、少し違う絵が見えてくる気がします。
そこで今回は、インドネシアで暮らす視点から、WHOOSHの「本当のところ」を考えてみたいと思います。
ジャカルタからバンドンへ。この区間を移動したことのある人なら、あの渋滞の凄まじさをご存じのはずです。
週末ともなれば、高速道路は完全にストップします。金曜の夜に出発して、バンドンに着くのは夜中。日曜の午後に帰ろうとすれば、到着は深夜になることもあります。
「3時間で着ければ上出来」
「4時間は覚悟して」
という感覚が、バンドンを知る人たちの共通認識でした。
WHOOSHは、その区間を約40分で結びます。しかも到着時間がほぼ読めます。
これが、インドネシア人の生活にとって何を意味するか、少し想像してみてください。
日本人の感覚で言えば、東京から大阪へ行くのに毎回渋滞する高速道路しかなかったところへ、突然新幹線が開通したようなものかもしれません。
インドネシア人の友人や現地SNSを見ていると、利用者の声は意外なほどポジティブです。
「出張がこんなに楽になるとは思わなかった」
「もう高速道路には戻れない」
「家族旅行で使ったけど、子どもも喜んでいた」
「バンドンに日帰りできるようになった」
こうした声が、現地では普通に流れています。
日本で語られる「失敗プロジェクト」という評価は、少なくとも実際に利用している人たちの感覚とは少し違うようです。
利用者が重視しているのは、中国案件かどうかではありません。
ただひとつ、
「便利になったかどうか」
なのです。
WHOOSHに対する批判の一つに、
「なぜバンドン市街地まで入らないのか」
というものがあります。
現在の終点は市中心部から離れており、そこからさらに移動が必要になります。確かに利用者からすると、「最後の一手間」が面倒に感じるのは理解できます。
ただ、私はこの問いに少し違う見方をしています。
もしこの路線が「ジャカルタ―バンドン間の移動だけを目的にした鉄道」なら、中心部の既存駅まで乗り入れた方が便利なのは間違いありません。
しかし、そのためには莫大な用地買収、高架工事、地下化、場合によっては大規模な住民移転まで必要になります。
建設費はさらに膨れ上がっていたでしょう。
そもそも、この路線は本当に「バンドン行き」なのでしょうか。
WHOOSHには当初から延伸構想があります。
バンドンで終わるのではなく、ジョグジャカルタ、ソロ、そしてスラバヤへ。
ジャワ島を縦断する高速鉄道ネットワークの、あくまでも第一区間という考え方です。
そう考えると、現在の終点の位置も違って見えてきます。
都市中心部に無理やり引き込むより、都市外縁部を通して東へ伸ばせるルートの方が、延伸の観点では合理的です。
つまり現在の終点を「バンドンの終着駅」として見ると不便に見える。
しかし「将来のジャワ島縦断高速鉄道の途中駅」として見ると、全く違う意味を持ってきます。
高速鉄道のルートは、現在だけでなく数十年先を見据えて設計されるものです。
WHOOSHは鉄道だけを作ったわけではありません。
駅周辺の土地開発、住宅開発、商業施設整備、新たな経済圏の形成まで含めたプロジェクトです。
中国の高速鉄道開発でもよく見られるように、運賃収入だけでなく、不動産価値の上昇や沿線経済の活性化まで含めて投資回収を考えています。
日本にも似た例があります。
東海道新幹線が開業した1964年当時、新横浜駅周辺には田んぼや空き地が広がり、「なぜこんな場所に駅を作ったのか」と言われました。
私自身、1970年代頃の新横浜を覚えていますが、今とは比べものにならないほど何もありませんでした。
当時は「ひかり」も通過する駅でした。
それが今ではオフィス、ホテル、商業施設、アリーナが集まる巨大な都市拠点です。
不便な場所に駅を作ったのではなく、
「駅が街を作った」
のです。
WHOOSHも、もしかすると今はその途中段階にあるのかもしれません。
インドネシア人の友人たちと話していて感じるのは、
「中国だから乗らない」
という人はほとんどいないことです。
むしろ、
「ようやくインドネシアにも高速鉄道ができた」
という反応の方が多い印象です。
日本人が思う以上に、WHOOSHは単なる交通インフラではなく、インドネシアの近代化や国家の成長を象徴するプロジェクトとして受け止められています。
だからこそ、建設時の問題点を認めながらも、多くの人が前向きに利用しているのでしょう。
もう一つ、日本人がWHOOSHを見るときに生じるズレがあります。
それは「採算」の定義です。
日本では鉄道の採算を語るとき、主に運賃収入で建設費や運営費を回収できるかどうかが重視されます。
しかしインドネシア政府が見ているのは、それだけではありません。
地域開発、雇用創出、都市形成、インフラ水準の向上。
そうした直接の収支には表れない価値も含めて判断しています。
インドネシアはまだ発展途上のインフラ国家です。
「赤字だから作らない」ではなく、
「まず作る。そして使われながら改善する」
という考え方が根底にあるように感じます。
公平に見れば、WHOOSHは建設プロセスにおいて問題が多かったのは事実です。
コスト超過、工期遅延、債務構造の問題。
これらは批判されて当然でしょう。
しかし同時に、利用者は増え続け、その利便性を評価する声も多い。
駅周辺開発もまだ進行中です。
だから現時点での正直な評価は、
「大失敗」でも
「大成功」でもありません。
私がインドネシアで暮らしていて感じるのは、
「作るまでは失敗っぽかった。でも完成したら意外とみんな使っている」
という空気です。
WHOOSHの本当の答えが出るのは、10年後か20年後でしょう。
スラバヤへの延伸が進むのか。
駅周辺の都市開発が成功するのか。
利用者は増え続けるのか。
その結果を見て初めて、
「あれは成功だった」
あるいは
「やはり失敗だった」
という評価が下されるのだと思います。
少なくとも今の段階で「完全な失敗」と断言するのは、まだ早すぎるのではないでしょうか。
インドネシアで暮らしていると、「数字や政治の話」と「実際に乗っている人の話」が、まったく別のところで動いていると感じることがあります。
どちらが正しいということではありません。