「今日は休ませてください」
以前の私は、この言葉を聞くと、すぐに理由を聞いていました。
子どもの学校なのか。 家族の用事なのか。 それとも、体調が悪いのか。
そして、その理由が、仕事を休むほどのものなのかを、頭のどこかで、判断していました。
正直に言えば、それが経営者の仕事だと思っていました。 理由もなく休まれては、工場が回りません。 出荷の予定もあります。 だから私は、理由を聞き、時には、少しだけ渋い顔をしていたと思います。
日本で働いていた頃、私自身も、休みを取るときには、いつも理由を用意していました。 本当は、ただ疲れていただけでも、「体調不良」と書いた方が、周りに角が立たないことを知っていました。 理由のない休みは、どこか後ろめたいものだと、当たり前のように思っていたのです。 その感覚を、今度は自分が、部下に対して求めていたのだと思います。
けれど今は、ほとんど理由を聞きません。
休みたいなら、休んでいい。 そう考えるようになりました。
きっかけを、はっきりとは覚えていません。 ただ、一つだけ、今でも覚えている場面があります。
ある従業員が、朝、少し言いにくそうに言いました。
「今日、子どもの卒業式なんです」
私は、いつものように、「今日は忙しいんだけどな」と、口から出かけました。 けれど、彼女の表情を見て、言葉を飲み込みました。 少し困ったような、それでいて、譲れないという顔をしていたからです。
その日、彼女は休みました。 翌日、いつもより早く出勤して、前日の分を、黙って片付けていました。
家族の用事だと言われて、渋い顔をする。 それだけで、 相手には十分伝わってしまうものです。 私自身、日本にいた頃、そうやって働いてきました。 けれど、それが正しかったのかと聞かれると、今はうまく答えられません。
この街で働くスタッフたちは、家族の予定を、当たり前のように優先します。 子どもの行事、親戚の集まり、冠婚葬祭。 最初は、その頻度に、正直戸惑いました。 けれど、彼らを責める資格が、自分にあるのかと、あるとき、ふと考えました。
その考えが、本当に試されたのは、別の従業員が、一週間の休みを願い出たときでした。 離れた島に住む親が体調を崩し、しばらくそばにいたいということでした。 繁忙期で、正直、頭を抱えました。 以前の私なら、代わりの人員をどう回すか計算しながら、渋々認めていたと思います。 その時の私は、ただ「分かりました。気をつけて行ってきてください」とだけ伝えました。 自分でも、少し驚くくらい、自然にその言葉が出ました。
一週間後、彼は戻ってきました。
「ありがとうございました。」
そう言って仕事を始めるのかと思っていました。
でも彼は、何も言いませんでした。 いつも通り工場に入り、 いつも通りエプロンを着けて、 黙って仕事を始めました。
その日からでしょうか。 箱を運ぶ手つきも、 製品を並べる姿も、 前より少しだけ丁寧になったように見えました。
もちろん、本当に変わったのかは分かりません。 変わったのは、彼ではなく、私の見方だったのかもしれません。
理由を聞くことをやめてから、変わったのは、休みの回数ではありませんでした。
休んだ分を、どう取り戻すか。 それも、本人に任せることにしました。 急かさなくても、彼らは、自分のタイミングで、仕事に戻ってきます。 むしろ、以前より早く、自分から動き出すようになった人もいます。
管理しなければ、人は仕事をしなくなる。 そう思っていた自分がいました。 けれど、実際は逆でした。
今でも、 「そんな会社で、本当に大丈夫なのか」 と聞かれることがあります。
私はいつも、
「今のところ、大丈夫です。」
とだけ答えます。
休む理由を聞かなくなってから、 私は、人を管理することより、 信じることの方が難しいと知りました。
自由にしたから、仕事をしなくなったわけではありませんでした。 むしろ、自分で戻ってきて、自分で仕事を始めるようになりました。
人は、 縛られたから働くのではありません。 信じてもらえたとき、 応えようとすることがある。
そのことを、 私はこの街で教わりました。