工場が、ようやく動き始めた。
ラインが音を立てて動き出したとき、思わず声が出た。 これで一安心だ。あとは、育てていくだけだ。そう思っていた。
でも、本当の苦労は、ここから始まった。
現地のスタッフを採用したのは、工場が動き出してすぐのことだった。
面接のとき、彼はまっすぐに私の目を見て、この仕事をやってみたいと言った。 覚えも早く、機械の扱いも器用で、何より、他の社員をよく気にかけていた。
私は、彼となら会社を育てていけると思っていた。
毎日、朝早くから工場に来て、私より先に機械を見て回っていた。 仕事が終われば一緒に食事に行き、休みの日には、家族の話も聞いた。 子どもが生まれたばかりだと、うれしそうに話していたのを覚えている。
彼になら、工場を任せられる。私は、そう信じていた。
ある日、来なくなった
ところが、ある月曜日の朝から、彼は工場に来なくなった。
最初は、体調でも崩したのだろうと思っていた。 電話をかけても、つながらない。メッセージを送っても、既読すらつかない。
二日目、三日目になっても、状況は変わらなかった。 不安と苛立ちが、日を追うごとに大きくなっていった。
四日目、別の社員から聞かされた。 彼は、別の会社に移っていた。私に、ひとことの相談もなく。
その会社は、うちより少しだけ給料が高いところだった、とだけ聞いた。
「なぜ」だけが残った
怒りより先に来たのは、「なぜ」だった。
日本なら、たとえ辞めるにしても、何かしらの説明があったはずだ。 理由を告げ、引き継ぎをし、頭を下げる。それが当たり前だと思っていた。 少なくとも、一言くらいは。
でも、ここでは違った。 説明もなく、謝罪もなく、ただ、いなくなった。
彼の机には、使っていたノートがそのまま残されていた。 私はそれをしばらく片付けられずにいた。
「悪い人じゃない」
しばらくして、古くから付き合いのある現地の知人に、このことを話した。
一通り話し終えたあと、彼は、少し困ったような顔をして、こう言った。 「悪い人じゃないよ」
それだけだった。
私は、その一言の意味を、しばらく理解できなかった。 裏切られたのに、悪い人じゃない。それがどういうことなのか。
説明を求めても、彼はそれ以上、多くを語らなかった。 ただ、「そういうことは、よくある」と、静かに付け加えただけだった。
信用の形は、一つではなかった
私は、信用とは「約束を守ること」だと思っていた。 一度交わした言葉は、守られるべきものだと。
でも、この国で少しずつ分かってきたのは、 信用の形は、一つではないということだった。
家族のこと。暮らしのこと。将来のこと。 私には知ることのできない事情が、彼にもあったのだろう。
わずかな給料の差が、彼にとってどれほどの意味を持つのか。 子どもが生まれたばかりの家庭にとって、それがどれほど大きな選択だったのか。 私には、想像することしかできない。
私が守られなかったと感じた約束は、 彼にとっては、もっと大きな何かを守るための選択だったのかもしれない。
私は、人を信じなくなったわけではない。
ただ、信じ方が、少し変わった。 約束だけを見るのではなく、 その人の人生を見るようになった。
あの日いなくなった彼が、今どこで何をしているのか、私は知らない。
ただ、 「悪い人じゃない。」 あの一言だけは、 今でも、ときどき思い出す。