日本では高級品になりつつある魚が、マカッサルでは毎日の食卓の主役。漁港がすぐそばにある街だからこそ実現する“鮮度と安さ”に支えられた豊かな食文化とは? 外食も家庭料理も魚中心。人と人をつなぐ“魚を囲む時間”を通じて見えてきた、海の街ならではの幸せな暮らしを紹介します。
「サバ味噌を作るより、鶏肉のほうが安い」
「鮮魚コーナーより、冷凍食品のほうが手頃」
そんな声が聞こえてくるほど、日常的に魚を食べる文化が静かに後退しています。
一方、インドネシア・南スラウェシ州の中心都市 マカッサル は、“魚でお腹いっぱいになること”が日常の光景。しかも特別な日ではなく、毎日の生活の中に当たり前のように存在しています。
マカッサルに住むと、まず驚くのが「鮮魚の鮮度」です。
街の中心から車で10〜20分ほど走れば、すぐに海と漁港。
特に Paotere(パオテレ)漁港 は、毎朝、漁を終えた船がそのまま水揚げを行い、魚が次々と市場へ運ばれていきます。
鮮度の高さを支えているのは、
「海が生活圏のすぐそばにある」
という環境そのもの。
漁港 → 市場 → 家庭やレストランまでの距離が圧倒的に短いため、流通に無駄がありません。
その結果、
「朝揚がった魚を昼に食べる」
という贅沢が、特別料金ではなく“普段の食事”として成立しています。
外食文化そのものが“魚中心”。しかも安い
マカッサルの食文化は、圧倒的に魚が主役です。
焼き魚、煮魚、スープ、カレー風など、どの店に入っても海鮮をベースにしたメニューが並びます。
一般的な人気店の焼き魚(Ikan Bakar)は、
30〜40cmの魚を丸ごと焼いて 提供されます。
基本は塩焼きで、サンバルと一緒に食べるスタイル。
これで 40,000〜60,000ルピア(約400〜600円)。
日本で「特大サイズの魚を丸焼きにして600円」は、まず考えられません。
お客さんと一緒に訪れると、魚を何種類も注文してテーブルの中央に並べ、シェアしながら食べます。
これがまた実においしい。
そして満腹になる。
“庶民的な価格で、量も質も満足できる”。
この 魚を中心とした外食文化 が、マカッサルの生活の幸福度を押し上げている理由のひとつです。
外食だけでなく、家庭料理にも魚は欠かせません。
たとえば、魚を使った パルマラ(Pallu Mara) というスープ。
香味野菜と魚の旨味が溶け合い、どこか日本の煮魚を思わせる優しい味わいがあります。
また、揚げ魚にスパイスをかけた Ikan Goreng も定番料理。
家庭ごとに味付けが異なり、“お母さんの味”がしっかり存在する一品です。
家に招かれて出てくる料理の多くが海鮮であり、
「今日は特別だから海鮮」
というより、
「普段の料理だから海鮮」
という感覚。
この 生活に自然と溶け込んだ魚文化 が、食卓の豊かさを支えています。
近年の日本では魚の価格が高騰し、
サバ、サケ、アジなどの庶民的な魚でさえ気軽に買えなくなりつつあります。
・食卓に並ぶ回数が減った
・量を控えるようになった
・肉中心の献立にシフトした
こうした声が増えるのも当然です。
しかし、マカッサルでは事情がまったく違います。
魚は 特別料理ではなく、完全に日常の主役。
しかも“たっぷり食べられる”。
この“当たり前すぎる贅沢”は、実際に暮らしてみないと実感できません。
魚を食べるたびに、
「ああ、海の街で暮らす豊かさはここにある」
と感じるのです。
週末に近所の家に招かれると、テーブルには大量の魚料理が並びます。
焼き魚、煮込み、海鮮スープ――どれも驚くほど新鮮で、種類も豊富。
みんなで魚をつつきながら談笑する時間は心地よく、
マカッサルでは 「魚料理そのものが、人と人とをつなぐ役割を果たしている」
と感じる瞬間が多々あります。
料理以上に、“一緒に魚を囲む時間”が、この街の温かさをつくっているのです。
魚でお腹いっぱいになる――
それは贅沢ではなく、生活の延長にある幸せです。
マカッサルは、
・鮮度の良い魚が手頃に手に入る
・外食も家庭料理も魚が中心
・コミュニティをつなぐ“魚文化”が根付く
そんな街だからこそ、食卓に豊かさが宿ります。
日本では高級品になってしまった魚を、
ここでは毎日、大きく、美味しく、気兼ねなく食べられる。
この飾らない“海の幸の豊かさ”こそ、
マカッサルで暮らす醍醐味 だと、私は心から思います。