ホテルが映し出すラマダンのもう一つの顔
ラマダンでなぜ消費は伸びるのか。
そんなことを考えていたタイミングで、私はマカッサルのホテルのイフタール・ブッフェに足を運びました。
この時期、マカッサルのホテルはどこもイフタール特別メニューを打ち出します。エントランスにはラマダン装飾が施され、三日月やランタンのオブジェが飾られ、ロビーの空気もどこか柔らかくなります。
そして日没が近づくころ、レストランの前には人が集まり始めます。
家族連れ、会社の同僚グループ、友人同士。
みな、日中の断食を終える瞬間を待ちながら席につきます。
会場に入ってまず驚くのは、そのスケールです。
長いカウンターに並ぶ料理の数は、軽く百種類を超えます。
揚げ物のコーナーでは、揚げたてのサモサやバクワンが次々と補充されます。
インドネシアの定番料理に加え、パスタ、グリルステーション。
さらには巨大なデザート台。
カラフルなケーキ、ゼリー、クエ・ラマダンと呼ばれる伝統菓子まで並びます。
正直に言えば、普段あまり食べたことがないような料理の数々で豪華さが際立ちます。
しかし、それがラマダンの夜の風景なのです。
日没前の会場は、どこか落ち着かない空気に包まれています。
目の前には、百種類を超える料理がずらりと並び、揚げ物の香りや甘いデザートの色彩が視界を埋めます。
お腹は正直に空いています。
それでも誰も手を伸ばしません。
皿に料理を取り分け、テーブルに並べたまま、断食が終わる瞬間を待ちます。
まるで“おあずけ”のように、料理を前にして時間を数えます。
そして日没を知らせるアザーンが響きます。
その瞬間、まずは水とデーツで断食を解きます。
会場の空気は一瞬、静かになります。
どのテーブルも、ほんのわずかな安堵の時間を共有しているようです。
数分後、ゆっくりと人の動きが戻ります。
料理の列に並び直し、温かい料理を取りに行く人もいます。
むしろ、ほっとした笑顔があふれています。
断食の一日を終えたという安堵感。
家族や仲間と同じ時間を共有できる安心感。
それらが重なり、ブッフェは静かに祝祭の場へと変わっていきます。
ここで少しだけ、経営の視点で考えてみます。
ラマダン中、昼のレストランは客足が落ちます。
しかし夜のイフタール需要は爆発的に伸びます。
ホテルにとって、この時期は「勝負の月」です。
価格は通常のビュッフェよりもやや高めに設定されますが、それでも予約は埋まります。企業単位での団体予約も多く、テーブルはほぼ満席です。
つまりラマダンは、ホテルにとって単なる宗教イベントではなく、年間売上を押し上げる重要な機会でもあります。
料理の種類を増やすのも、デザートを充実させるのも、空間装飾に力を入れるのも、すべてはこの夜の体験価値を高めるためです。
日本で語られるラマダンは、「断食」という側面が強調されがちです。
けれど現地で暮らしていると、それだけでは説明がつかない光景を目にします。
ラマダンは我慢の月であると同時に、再会の月であり、祝福の月でもあります。
だからこそ、夜は豊かになります。
料理が豪華になるのは、単に空腹だからではありません。
人が集まり、共有し、祝う時間だからです。
その結果として、消費が伸びる。
「抑制と解放のリズム」は、このブッフェの会場で目に見える形になります。
数年前までは、ここまで大規模なホテルブッフェは珍しかった印象があります。
しかし今では、どのホテルも趣向を凝らしたイフタール企画を打ち出します。
テーマを設けたり、ライブクッキングを強化したり、SNS映えする装飾を用意したり。
ラマダンは、消費が「体験化」する月でもあるのです。
食べること以上に、そこで過ごす時間や空間が重視される。
それはインドネシアの消費が、量から質へと少しずつ変化している兆しにも見えます。
断食の月に、百種類以上の料理が並ぶ。
一見、矛盾しているように見えるかもしれません。
しかし実際にその場に立つと、それは自然な流れのように感じられます。
我慢したからこそ、分かち合う。
抑えたからこそ、祝う。
ラマダンのホテルブッフェは、その縮図のような空間です。
消費は単なる経済行動ではなく、人の感情や共同体のリズムと結びついている。
マカッサルのホテルのイフタール会場で、私は改めてそれを実感しました。
ラマダンの夜は、静かで、にぎやかで、そして少しだけ特別です。