「海外で起業したい」と憧れる人は多い。
しかし、その現実は思った以上に過酷だ。
私はインドネシアで現地法人を立ち上げ、4年間、経営の最前線に立ってきました。
「海外で働く」「現地で会社を作る」とは、聞こえは華やかでも、実際の現場は泥臭く、試練の連続です。
インドネシア・マカッサルで水産輸出会社を設立した私が、法人登記、資金繰り、ローカル社員のマネジメント、行政との関係づくりまで、そのすべてを語ります。
海外で起業を考える人、現地法人を任された人、そして「海外で働くとは何か」を知りたいすべての人へ。
書類の壁、文化の違い、資金の不安、そして人との信頼。
きれいごと抜きで、“海外ビジネスのリアル”をお伝えします。
そんな漠然とした夢を抱く人は少なくないと思います。
自由な働き方、エキゾチックな文化、未知の市場。SNS上では“海外起業”という言葉がどこか眩しく聞こえる時代です。成功者のキラキラした投稿や「月商○○万円達成!」という景気の良い話――しかし、その裏側にある泥臭い現実を語る人は驚くほど少ないものです。
私もその一人でした。
初めてインドネシア・マカッサルを訪れたのは2015年の夏。港町に広がる海と人の温かさに惹かれ、6年後の2021年、マカッサルで水産物輸出事業の会社を立ち上げました。目的は、現地のタコを中心とした水産物を日本へ輸出すること。日本で培った加工技術を活かし、インドネシアの漁業者と共に成長する――そんな理想を胸に事業をスタートしました。
しかし、現実は想像をはるかに超えるものでした。
書類一枚を取るにも時間がかかり、言葉が通じても意図は伝わらない。“文化の違い”という一言では片付けられない摩擦と葛藤の連続。約束の時間に誰も来ない。提出したはずの書類が「受け取っていない」と言われる。銀行口座の開設に3か月かかる――そんな日常が、私の「海外起業」でした。
この4年間、インドネシアで会社を経営しながら感じたのは、「夢を語ることよりも、現実を生き抜く力が問われる」という事実です。海外起業を美化するつもりはありません。むしろ、その過酷さと向き合い、それでも続ける価値がどこにあるのかを、正直に伝えたいと思います。
これから海外でビジネスを始めようとしている人、すでに壁にぶつかっている人、そして「海外起業ってどうなの?」と迷っている人へ向けた、リアルな記録です。きれいごとは書きません。でも、希望も諦めません。それが、私がインドネシアで学んだことだからです。
日本では登記さえ済めば会社が誕生しますが、インドネシアではそう簡単ではありません。
ここでは「会社ができる」と「会社が動く」の間に、想像以上の距離があります。
まず、公証人と弁護士による定款認証、投資調整庁(BKPM)への申請、税務番号(NPWP)の取得、事業許可(NIB)の発行、さらに地方行政の営業許可――この一連の手続きがすべて連動しており、どれか一つでも遅れると全体が止まります。しかも、各機関が独立して動いているため、「A省で承認されたのにB省では未受理」という事態が頻発します。
加えて、「外国資本が入っているかどうか」で審査のスピードも対応も変わります。“外国人=時間がかかる”というのは暗黙の了解です。1枚の書類に10以上の署名と印鑑が必要なこともざら。印刷、署名、スキャン、再提出――メール一往復に一週間。最初は怒りを感じましたが、途中から笑うしかなくなりました。
ここで一つ、重要な選択肢が現れます。
「手数料を払って早く進めるか、時間をかけても正規ルートで進めるか」という分岐点です。インドネシアでは、いわゆる“ファシリテーション・ペイメント”(便宜供与)が慣習として存在する場面があります。否定はしません。実際、それで進むケースもあります。
しかし私は、「時間がかかっても正攻法で行こう」と決めました。理由はシンプルです。短期的な利益よりも、長期的な信頼を優先したかったから。そして何より、現地の仲間たちが誠実に働く人たちだったからです。
弁護士、行政担当、会計士――彼らの“人としての誠実さ”が最後の砦でした。
「早く進める裏技」を提案することなく、正しい手続きを丁寧に教えてくれ、何度も役所に足を運んでくれた。その姿勢に、私は救われました。
痛感したのは、会社を作ることはゴールではなくスタート地点にすぎないということ。
登記が終わっても、スタッフの採用、銀行口座の開設、税務申告の準備、取引先との契約――次々と課題が押し寄せます。
特に厳しかったのが銀行口座の開設でした。外資系企業であるうえに事業実績がないため、どの銀行も慎重でした。書類を揃えても「追加資料が必要」と言われ、それを提出すると「担当者が変わった」と一からやり直し。最終的に口座が開設されるまで約3か月を要しました。
「会社を作る」とは、“環境を整える”ことではなく、“仕組みを回す覚悟を持つ”ことなのです。看板ができても、人が動かなければ会社ではない。お金が回らなければ、ただの箱です。設立はスタート。本当の勝負はその後にあります。
言葉は通じるのに、なぜ分かり合えないのか
「なぜ指示したことが伝わらないのだろう?」
現地社員を採用して最初の数ヶ月、この疑問が頭から離れませんでした。インドネシア語も英語も通じるのに、意図が伝わらない。納期を守ると言ったのに遅れる。報告すると約束したのに連絡がない。最初は「やる気がないのか?」と苛立ちさえ覚えました。
しかし、それは完全に誤解でした。
彼らにやる気がないわけではありません。価値観の軸が違うのです。
日本では「期限厳守」「報連相」「定時出社」が当たり前。しかしここでは、“人間関係が先、仕事はその次”という価値観が強く根づいています。
たとえば、会議の前に30分の雑談。日本人の感覚では「時間の無駄」に見えますが、インドネシアでは「信頼を築く時間」なのです。仕事の話をする前に、相手の家族のこと、週末の出来事、好きな食べ物――そうした“人となり”を知ることが、ビジネスの前提になっています。
私が学んだのは、信頼は契約書よりもコーヒーの時間から始まるということです。
朝の一杯を共にしながら家族の話をする。冗談を言い合い、笑い合う。その中で相手の“人となり”を理解し、少しずつ距離が縮まっていく。
ある日、納期が守られなかった案件がありました。日本なら「なぜ報告が遅れたのか」と叱責するところですが、理由を聞くと社員の家族が急に入院していたのです。彼は「家族が最優先」と考え、病院に付き添っていました。
その時、私は深く反省しました。
「仕事より家族」という価値観は、彼らにとって当然のことであり、非難されるべきことではない。むしろ、それが人間として正しい姿なのかもしれない。文化の違いとは、正しい・間違いではなく、“優先順位の違い”なのです。
それ以降、私は叱ることをやめました。その代わり、毎朝必ずスタッフ全員と顔を合わせ、挨拶をし、コーヒーを飲む時間を作りました。仕事の話は後回し。まずは「今日の調子はどう?」「家族は元気?」と聞く。たったそれだけでチームの空気が変わりました。
彼らは自発的に動くようになり、問題があれば相談してくれるようになりました。納期が遅れそうなときは事前に報告が来るようになりました。これは管理を厳しくした結果ではなく、信頼が生まれた結果です。
インドネシアでは、「信頼」と「情」がビジネスの基盤です。契約書に何を書こうと、人と人の関係が壊れていれば仕事は回りません。逆に、信頼さえあれば多少のトラブルは乗り越えられる。それが、私がこの国で学んだマネジメントの本質です。
次回に続きます。